おはようございます、ノ・ジェスです。
令和哲学カフェ8期では
人間尊厳危機、AI時代、自分の考えで考えたい
核個人時代を生きる心人間の「精神とは」
を中心テーマとして、5人のSAMURAIと
共に考えてきました。
今週はまとめの週です。
木曜日の侍は一龍飛さんで、
日本の明治維新の
エンジンになった陽明学が
壮大なスケールで整理されていました。
陽明学ではキリスト教のような
「救世主」の概念がありません。
陽明学を学んだ高杉晋作や当時の人は
どんなポイントをみて
陽明学とキリスト教を繋げたのでしょうか。
朱子学であろうが陽明学であろうが
中国の儒学は人間の宇宙・自然・環境と
分離・断絶・固定・独立した存在を疑っておらず、
体が人間、体が自分が
当たり前になっています。
経験・知識を土台にしているのが
中国の朱子学であり儒学で、
人間の生命や精神のことを大変重要視します。
それと比べると
キリスト教は人間の生命や精神は、
泡沫・バブルのように整理しています。
宇宙・自然・環境と
分離・断絶・独立している存在は
価値がないとし、
神の息子であるジーザス(メシア)を
信じる行為が一番価値があるとしています。
ですから分離・断絶・独立している人間の
生命・精神、生きる問題は
哲学の材料として使いません。
それは原因でなく結果物だからです。
西洋はやはり原因といえば神になるのです。
私たちは以下の問いを踏まえて
ディスカッションをしました。
人間に救世主は必要なのか。
救世主はどんな条件をもっているのか。
人間から絶対的崇拝の対象になるべきなのか。
救世主として活躍するには
どんなことを満足させなければならないのか。
日本文明は人類の救世主になれるのか。
ジーザスは来るのか、またどんな形で来るのか。
次回は
純度100%の心になった次の段階として
今までの脳の相対比較や
足を引っ張る世界を突破し
コロナパンデミック以上のスピードで
純度100%の心を広げていくには
何が必要なのかについて
語っていきたいと思います。
現在、令和哲学カフェは
令和哲学チャンネルにて
アーカイブが1週間視聴可能になります。
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