おはようございます。ノ・ジェスです。
昨日は、第63回令和哲学カフェが開催されました。
毎回多くの方に
ご参加いただきありがとうございます。
「ドゥルーズと思考」3日目は
「表現とは何か?」をテーマに
WHT※をしました。
日常の中で行っている「表現」。
いったい何を表現とし、
なぜそれを表現といえるのでしょうか。
今回のWHTでは、カント哲学的な表現と、
ドゥルーズ哲学的な表現に分かれて、
相手の主義主張を受け入れることが
難しくなるという
面白い状況が起こりました。
カント哲学を象徴するのは、
単語や概念を固定して定義する
「同一性」の哲学であり、
ドゥルーズ哲学を象徴するのは
今ここ常に固定できるものはない
「違い」の哲学です。
ドゥルーズ哲学から整理すると、
常に今ここの動きから出発していきます。
体の目でみて、例えば
「このペンは紫色だ」というのは、
言語の約束体系にすぎず、
表現ではなく束縛になります。
ドゥルーズ哲学でいう表現は、
部分の存在にとどまるものではなく、
境界線がない全ての動きです。
境界線にクローズされたら
表現ではないのです。
令和哲学で解析すれば、
表現とは“関係場”であり
“事件の連続”です。
オーケストラで例えると、
音楽という動きの中で、
どんなタイミングで入って
自分の楽器を演奏するのか
というイメージです。
すべてがつながって今ここ動いている、
巨大なひとつの動き、
今ここで過去、現在、未来が
全部一緒にオーケストラで
演奏しているようなものなのです。
ですから、今ここが統制できれば
すべてを統制できると言えます。
哲学はイメージ、概念の発見です。
それまで誰も出会ったことのない概念が、
既存の概念のすべてを融合できれば、
それが時代の哲学になります。
令和哲学では、
具体的な大きさがある世界と
愛などの抽象的な概念の世界を
すべて取り入れた、
一番大きい世界と
一番小さい世界を融合できる
「動き」のイメージ、
概念を発見したのです。
→※用語集はこちら
https://reiwaphilosophy.com/community/knowledge-base/words/
次回の令和哲学カフェは、
8/25(火)21時から開催します。
どうぞお楽しみに!