【20210430】令和哲学からみた「人間の死の恐怖」 令和哲学カフェ質問道場

おはようございます。ノ・ジェスです。

本日は
過去の令和哲学カフェの質問道場から
内容の一部をお送りします。

Q.人間であれば誰もが無意識に
死の恐怖があると思うのですが、
それは存在が消えていくことに対する
恐怖なのでしょうか?
令和哲学の観点からみたときに、なぜ
体の人間には死の恐怖があるのでしょうか?

A.人間の体を存在させることは、
一段階の源泉動き(オリジナルマインド)
の意志です。
源泉動きからみたら、
人間の体を存在させるということには、
特に大きな期待があります。

なぜならば、人間だけが
唯一生きたまま死ぬことができ、
源泉動きに戻れるからです。

映画『レディプレイヤー1』
を見てもわかるように
体の人間が生きたまま死ぬことで、
なぜ源泉動きが夢をみていたのかが
わかるようになります。

源泉動きを「王子」に例えると、
体の人間は王子があえて
「乞食の服」を着ている状態にあたります。

もし、乞食の服を脱げないのであれば、
王子が乞食の服を着ることはできません。
人間が生きたまま死ねることが
分かっているので
あえて乞食の服を着ることは、
一段階の源泉動きの
意志なのです。

つまり、人間のこの体は
「乞食の服」なので、
乞食の服を脱ぐことで、
源泉動きに戻ることができ、
人間が生きたまま死ぬことで、
本当の自分に戻れます。

それができるまで何度も
生死を繰り返すのです。

ですから、人間は、
生きたまま死んでいるのではない状態で
死を迎えることに対しては、
恐怖に感じるのです。

このように、この世界は
源泉動きの2段階の意思が働いています。
一段階は、
まず体の人間として存在させること、
そして、二段階は生きたまま死んで
本当の自分に戻るという
源泉動きの目的達成のためです。

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