おはようございます。ノ・ジェスです。
令和哲学カフェ第3期の第3弾
「多様を可能にする究極の一様
~性は持つものではなく使うもの~」
を開催しました。
ナビゲーター荒牧明楽さんによる
令和哲学についての
プレゼンからスタートしていきました。
一昨日のディスカッションでは、
「神がいる実存主義と
神がいない実存主義の違いとは?」
というテーマから始まり、
「究極の自由とは?」
というテーマにまで話が及びました。
たとえば、王様が権力を持っていた時代には
王様が秩序をつくる側となっていたため、
生きることや死ぬことを
決定できる存在でした。
それは、暴力を用いることで、
相手が見ている画面をゼロ化できるから、
自分がみている画面を
つらぬくことができたためです。
言い換えれば、自由になるためには
生死の問題を解決することが必要です。
認識技術は、
生きたままで死ぬことができる技術です。
精子と卵子があるままでは
核融合をおこすことができません。
生もない死もないとわかったとき、
自分の生殺与奪の権利を持つことができ、
自分と自分のみている画面が
精子と卵子のように
核融合をおこすことができるようになります。
そして究極の自由を得ることが
可能になるのです。