おはようございます、ノ・ジェスです。
令和哲学カフェはBEST BEING塾を
今年中に10300校つくるという流れから
月曜日と水曜日開催がスタートしました。
7ラウンドでは
人気ある哲学者1人を取り上げ、
完全学問・完全教育を具現化させていく
BEST BEING塾の
あり方・やり方・思い方・哲学を
深めています。
今回は、冨沢亮太さんから
ルネ・デカルトについて
プレゼンテーションがありました。
デカルトは近代哲学の出発点といわれ、
古代のものの観方から
近代のものの観方を提示し、
近代哲学・科学・フランス革命に
大きな影響を与えたといわれています。
デカルトは哲学の第一命題を、
『我思う、ゆえに我あり』(コギト・エルゴ・スム)
「世にはなにもなく、天もなく、地もなく、
もろもろの精神もなく、物体もない。
まだ、境界線もなく、
ただ『考える自分』だけがある」
と定立しました。
そして、キリスト教的な神ではなく
自然理性により扱われる神によって、
「自分」を含めたすべてが
無から生み出されたと考えました。
今回は、
「『我思う、ゆえに我あり』が
哲学の第一命題になれなかった理由とは?」
をテーマにディスカッションしました。
「我思う」は、
脳で思う認識と心で思う認識があります。
今回のプレゼンテーションでの
デカルトの「我思うの我」は
体の自分ではありませんでしたが、
「我あり」の有の定義については、
カントのいう時空間の中に
現れるものを指す有か、
nTechのいうどこにも依存せず
自ら存在するものを指す有かは
鮮明ではありません。
「我思う」が心の認識であれば、
一番速いスピードの動きであり
一元となります。
この一元から始まる何かを
デカルトは神といいましたが、
「我」を神とはいえませんでした。
「神一つしかない」の一元で
勝負できなかったのです。
ですから神が点のない純度100%の心・
一番速いスピードの動きであれば、
「我あり」は青い点・
二番目のスピードの動きです。
一元なら存在不可能・
思うこと不可能・知ること不可能なので、
その「我」は思えないし
「~がある」という概念もありません。
ですから、デカルトは「我思えない、
ゆえに我無い」といえれば良かったのです。
一元の世界とリアリティ存在の世界の
二つがあるからデカルトは二元論だと
単純に否定されることがあります。
しかし私は、一元論について
デカルトはギリギリまで語っていながら、
神を否定できなかったことで
二元論に留まってしまったのだ
と考えています。