【20240710】ラカン–主語・述語の伝統的言語の限界とは 令和哲学カフェNo.935

おはようございます、ノ・ジェスです。

毎週金曜日に開催される令和哲学カフェでは、
脳機能を心機能化させるnTechの観点から
「心理学」を新しく解析していきます。
アドラー・フロイト・ユング・ラカンの心理学と、
これらをまとめるメタ4で整理していきます。

第935回は、美談年民さんより
ジャック=マリー=エミール・ラカンについて
プレゼンテーションがありました。

心理学の目標は人間の行動統制です。
それに対してラカンは
言語学・構造主義を取り入れて無意識の構造や
主体形成を説明しようとしました。
ラカンは現実とは決して言語で語り得ないが、
同時に人間は現実を
言語によって語るしかないと言いました。
しかしそれは意味欠乏・意味中毒となり
終わりなき分析を招きます。

ディスカッションテーマは
「主語・述語の伝統的言語の限界とは」でした。

人間の行動を
どう理解・説明・統制できるでしょうか。
完全行動はどうしたら可能で、
人間の行動はどう理解すれば良いのでしょうか。
人間を行動させるものについて、
ニーチェは権力への意志、プラトンはエロス、
ショーペンハウアーは盲目的な意志、
フロイトはリビドー、
ラカンは主体などと表現しています。

主語・述語の主語自体は
どんなに細かく分けても
真の主体、純度100%心に到達できません。
主語・述語の世界が
脳機能の世界をオールゼロ化できた時に
純度100%心の一番速い動きになれます。
どこにも依存せず自ら動く、源泉動き、
これが行動の主体です。

この永遠不変の動きが変化の動きを生み出し、
変化の動きによって多様な存在、
主語・述語が生まれてきます。
主語・述語の存在当たり前の言語を使って
存在不可能を語ろうとするから無理なのです。

存在は分けても分けても永遠に残り、
終わりません。方をつけて片付けるように
映像スクリーンにバックスクリーンを
つけることです。
そしてスクリーンはスクリーンの外に溶ける、
つまり純度100%心ひとつに溶けます。
それを通して明確に人間の行動が、
源泉動きと繋がること、
それで一番歓喜あふれる動きができます。
ラカンを学ぶことで映像スクリーン、
バックスクリーン、スクリーンの外を投入した
PUスクリーン感覚・デジタル言語が
いかに便利なのかがよくわかります。

次回はアドラー・フロイト・
ユング・ラカンをまとめるメタ4です。

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