【20240805】生死がある世界と生死がない世界の統合とは 令和哲学カフェNo.937

おはようございます、ノ・ジェスです。

毎週金曜日に開催される令和哲学カフェでは、
第2ラウンドとなり
脳機能を心機能化させるnTechの観点から
「死」を新しく解析していきます。
ハイデッカー、キューブラー=ロス、
西田幾多郎、釈迦の死の世界と
これらをまとめるメタ4で整理します。

第937回は、森貴司さんより
マルティン・ハイデガーについて
プレゼンテーションがありました。

ハイデガーは
「存在がある」とは何かを強く求め、
「西洋哲学の歴史は
存在の考察が忘れ去られた」
と批判したほどです。
ハイデガーは、現存在(=人間)は
さまざまなものと当たり前に繋がった
しがらみの中にあり、
自分一人だけでは存在できないことから、
西洋哲学の二元論ではなく一元論から
「存在がある」を追求していきました。

どの現存在にも必ず訪れる死を受け入れ
本来性を発揮していくことを、
ハイデガーは死への先駆的決意性といいます。
また、死は存在を可能にする
積極的な概念であり、存在への問いの
重要な契機であると考えました。

ディスカッションテーマは
「生死があるのが当たり前の世界と、
生死がないのが当たり前の世界を
どうやって統合するか」でした。

今 認識の方向性は、
生死がある世界から生死がない世界なので、
これを生死がない世界から
生死がある世界をみる方向へ
もっていくことです。
また、留まらない動きは
一番速いスピードなので点が生まれませんが、
留まる動きは角度がある動きなので、
上りと下りの山の頂点で点ができ、
生死が生まれます。

ビールで例えると、留まらない動き・
一番速いスピードの動きがビールで、
一番速い動きに依存する
2番目・3番目・4番目…のスピードの動きは
泡になります。
生死でいえば、死がビールで 生が泡です。
そして、泡がビールにとけることで
不二となるのです。

ハイデガーは、死から
バックスクリーンと映像スクリーンを
行ったり来たりする動きはみましたが、
生も死もないスクリーンの外までは
みることができませんでした。
スクリーンを生み出すスクリーンの外と、
純粋なスクリーンの外の概念を
取り入れられなかったのです。

人間は死んでいく存在で、
今この瞬間の現存在です。
我々は歓喜・笑い・遊びが溢れる
人生を楽しむためにも、
泡ではなくビールのおいしさ・凄さを
明確に知らなければなりません。
これからも、ハイデガーも求めた
「現実の存在の秘密」をどんどん鮮明に
リテラシーしていきたいと思います。

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