【20201029】フッサールと令和哲学まとめ 令和哲学カフェNo.107

おはようございます。ノ・ジェスです。

一昨日は第107回令和哲学カフェ
「フッサールと令和哲学」5日目が開催されました。
毎回多くの方にご参加いただき
ありがとうございます。

今回はフッサールと令和哲学のまとめと
質問道場を行いました。

現象学で一番重要視するのが
自然的姿勢態度です。
自然的姿勢態度から、人間は体が自分だと思い
自分の体と環境、自分の意識と対象は
分離している、と当たり前に考えています。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」も、
思っている自分と存在している自分の間には
分離があり、二元論になっています。
しかし、この目でみている状態では
人間は分離したまま
自然に不幸になっていきます。
この姿勢態度を断固として
変えることを主張するのが現象学です。

けれどもそれはイスラム教徒が
キリスト教徒に改宗するよりも難しいことです。
目でみて
現象学を理解しようとするのは不可能で
主語・述語が生まれない、
時間・空間・存在・エネルギーもない、
ビン鳥※の外の世界から
すべてを整理することが必要です。
二元論を否定したフッサールも
「エポケー」と表現し、
現象を理解するためには判断停止して
現象学的還元から原因を追究することだ
と説明しています。
超越的還元まで行って、本質的構造がみえたら
「純粋意識」の志向的活動から
現象を理解する、と言っていますが、
この超越的還元の世界、令和哲学で言う
源泉的動きだけが実在する世界を
明確には定義できませんでした。

前述のデカルトの言葉を令和哲学で例えると
我思う(心の世界)
我あり(物質の世界)
となり、心の世界は物質が存在不可能で
存在不可能なところに思うことができる
という結論を出しています。
令和哲学では
この心と物質の完璧に分離した世界を
どう統一するのかの問題に対して
源泉的動き「1」が夢をみているのが
ビン鳥の世界という明確な解析をして、
それがどのような仕組みであるのかも
鮮明に表現しています。
それによりデカルトの論理も証明しながら、
二元論から
一元論で理解することができるのです。

→※用語集はこちら
https://reiwaphilosophy.com/community/knowledge-base/words/

次回の令和哲学カフェは
10/29(木)21時からです。
お楽しみに。

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