【20230929】ドゥルーズの映画哲学と「自分=不可能性」の生き方 令和哲学カフェNo.786

おはようございます、ノ・ジェスです。

令和哲学カフェ7期は9月11日より
新しいテーマが始まりました!
新しいSAMURAI5人と共に
「人間とは」を深めていきます。

月曜日の侍は小林隆人さんです。
今回は、特派員佐藤周之さんより、
漫画『チ。-地球の運動について-』や、
宇宙開発の現在地の
プレゼンテーションがあり、その後
ドゥルーズの『差異と反復』について深めました。
「自分=不可能性を知ることで
何をはじめられるのか?」をテーマに
ディスカッションをしていきました。

不可能性そのものの自分をわかったら、
存在不可能、選択不可能になります。
ですから、不可能性そのものがなくなったら
無限大可能性になるのです。
では、なぜ無限大可能性は
不可能性を必要としたのでしょうか。

無限大の可能性一個に固定される限界を
突破したのが不可能性そのものの自分です。
自分と言っているのは
無限大可能性を
超えている概念ということです。
どういうことかというと、
リアリティの世界の自分ではなく、
無限大可能性が思い込み、
結果物としての自分だから
小説、映画の中の自分
という概念ということです。

宇宙自然、歴史文明すべてを
応用活用できるし、
今までに無いものも使って
物語をつくることで、
一番美しくて偉大な物語を
持つことが出来るようになるのが
自分なのです。
それは、今まであったものに形状記憶して
新しい世界を取り組むことができる、
ドゥルーズ哲学とも一致しています。

自分に対する正しい規定ができていれば、
知っている世界から自由になることができます。
知らない世界、新しい世界に
チャレンジできることを通して、
お互いの物語を相互依存しながら、
もっと良いビジョンストーリーを
つくることができるのです。

知っている世界から自由だから、
戦争することなく、
今ここでストーリーとストーリーが出会い、
もっと美しい夢をもって
共同体をつくることができます。
それが人間の無限の可能性を
はじめられる生き方なのです。

違いを喜び、
もっと良い物語として昇華できる、
その素材として受け取ることが出来るのが
ドゥルーズの映画哲学です。
スクリーンの外の無限大可能性も楽しみながら、
物語の中の自分も楽しむことができる。
それが心時代の生き方です。
今ここ祭り文明で、
美しくて偉大な共同体をつくる道を
実践していきましょう。

現在、令和哲学カフェは
令和哲学チャンネルにて
アーカイブが1週間視聴可能になります。
ぜひお友達にもご紹介ください。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク