【20240512】AI時代の究極の判断とは 令和哲学カフェNo.923

おはようございます、ノ・ジェスです。

令和哲学カフェ8期では
人間尊厳危機、AI時代、基準点0時代
新しい基準点を必要とする時代
自分の考えで考えたい
核個人時代を生きる心人間がつくりだす
「組織化、勢力化とは」「文化・文明とは」
を整理してきました。その上で現在は
今まで令和哲学カフェで登場した
哲学者たちの総まとめを行っています。

今回は、原田卓さんからフッサールについて
まとめの整理がありました。
フッサールは当時の学問では
人間を真理に導けないと考え、
いかに世界を正しく認識できるかの解明を
哲学の義務とし完全学問を追究しました。
フッサールはなぜ
判断中止(エポケー)させたのでしょう。

フッサールが判断中止といった背景を
理解するためにデカルトと繋いでみます。
デカルトはまず、
自分の五感などの感覚知識や
体験知識・経験知識など体を使って得る知識を
認識の絶対基準にしていることを疑いました。

また、数学・物理学の知識も否定しました。
この現実世界が、『マトリックス』のように
人間の脳をカプセルに入れて
電気信号を送ってできた思い込みの世界ならば、
プログラミングされた現象を研究しても
何の意味もありません。
デカルトが最後まで否定できなかったのが、
すべてを考えている自分の存在でした
(コギト-エルゴ-スム)。

しかし、nTechではその自分さえ存在しません。
水一滴も酸素一滴もつくれない、
分離・断絶・固定・独立できない自分が
考えることは無理です。
自分とは、存在不可能・選択不可能な
ただの概念なのです。ですから、
一切信じられない目の前の世界とは逆に、
疑うことのできないものに戻ればいいのです。
私たちは純度100%の心に、
フッサールは純粋意識に戻ろうといいました。

映像スクリーン・バックスクリーン・スクリーンの外
というnTechのPUスクリーンの説明によって、
デカルトや西洋哲学者たちが
突破できなかったすべての限界を突破できます。
現実世界は映像スクリーンで、
宇宙が1個に固定されており観点も1個です。
その映像スクリーンとバックスクリーンを
行ったり来たりする有無の動きによって、
宇宙は無限大生まれ観点も無限大あります。
このスクリーンの外の世界は
イメージ不可能・認識不可能な源泉動きであり
観点がありません。

無限に広がるスクリーンの外からみれば
スクリーンの中は、
スクリーンの外の動きが生み出している
思い込みの世界に過ぎないと分かります。
つまり、自分と自分の宇宙は実在せず、
現実世界は源泉動きが認識する世界で、
純度100%の心の動きだけが
実在するといえます。

フッサールは、究極の遠心力を
純粋意識と表現し
ハイデッカーは
「不可能性そのものの自分。
現実世界は存在しない」
と求心力に気付きました。
別の言い方をすれば、
フッサールは究極のゴールをいったのに対し、
ハイデッカーは現実世界の出発点が
大事だといいました。
2人の哲学が一つになったら
完全学問だったかもしれません。

ヨーロッパの学問、数学・物理学では
人間完成できないことが明らかになりました。
核爆弾をつくって使わせるような学問を
学んでも、AI時代には何の未来もありません。
核爆弾を落としたアメリカを恨まず、
日本はよくやりました。
これからは、日本の純度100%心の勝負で
攻めにいきましょう。
散る桜ではなく、咲く桜です。

現在、令和哲学カフェは
令和哲学チャンネルにて
アーカイブが一週間視聴可能になります。
ぜひお友達にもご紹介ください。

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