【20240522】AI時代に人間は存在をどのように定義するか 令和哲学カフェNo.926

おはようございます、ノ・ジェスです。

令和哲学カフェ8期では
人間尊厳危機、AI時代、基準点0時代
新しい基準点を必要とする時代
自分の考えで考えたい
核個人時代を生きる心人間がつくりだす
「組織化、勢力化とは」「文化・文明とは」
を整理してきました。その上で現在は
今まで令和哲学カフェで登場した
哲学者たちの総まとめを行っています。

今回は長岡美妃さんから
フッサール、ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、
サルトルをメタ4の観点から整理する
プレゼンテーションがありました。
とんでもない4人の哲学者を大統合する
難しいチャレンジでした。その後
「AI時代に人間たちは存在をどのように
定義するか」ディスカッションしました。

すべての存在は神による被造物として
本質からすべての現実を語ってきた
世界に反して、本質よりも
今ここの現実、実存をどうみるのか。

デカルトにより、すべてを疑うことはできるが
疑っている自分が存在することは
疑うことができないという規定が
哲学の第一命題となり
カントにより存在論から認識論へ
鮮明にひっくり返され
近代思想哲学がでてきています。
その中で第一次・第二次世界大戦が
起きてからは徹底的に
実存主義の考え方が大きくなっていきました。

しかし、カント哲学の
「時空間にあらわれるものだけを有でとる」
という規定を土台とした西洋哲学者は、
時間という存在、空間という存在を
一切深く語りません。

フッサールは、西洋の学問の限界を感じて
現象学を構築し、神を信仰するのではなく 
純粋意識から物事をみることとしました。
ハイデガーはフッサールの規定では
学問が成り立たないと否定して
「現存在」から今こことつなごうとしました。
サルトルは「今ここの現実の自分」を
強調しましたが、それに対してハイデガーは
分離・独立・固定している存在とする
局所実在の概念を否定し
「世界内存在」として規定しました。

ハイデガーは「世界内存在」で
令和哲学でいう映像スクリーンのことを
語ろうとして、
部分の存在という固定観念を
完全に破るところまではいきましたが
シミュラークル、シミュレーションの
仕組みがみえていないので、映像スクリーン、
バックスクリーンとスクリーンの外という形で
鮮明に語ることはできませんでした。

ウィトゲンシュタインは
第一原因と今ここの関係を語ろうとする
哲学に対して
語れないことを言葉で語ろうとする
言語の限界として、
沈黙しろと哲学の終焉をいいました。

存在不可能な世界から、
存在当たり前の世界が生まれますが、
存在当たり前の世界の
一番中心の「存在」が「自分」であり
その自分は「人間自分(体の自分)」でした。
体の自分は「不可能性そのものの存在」
であることを語ることで
今まで規定ができなかった1(源泉動き)の
Defineを鮮明にすることができ
曖昧な単語を使って複雑な概念が生まれる
西洋哲学を統合させることができます。

また、今までの
「存在が動く」言語の限界を突破した
「動きが存在させる」デジタル言語、
メタ言語である完全言語によって
ウィトゲンシュタインが語った言語の限界の
その先へと突破していくことができるのです。

現在、令和哲学カフェは
令和哲学チャンネルにて
アーカイブが一週間視聴可能になります。
ぜひお友達にもご紹介ください。

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